居酒屋日記⑤ 商売の神様 前編

それは師走も押し迫った寒い夜、夕方から降り出した雨は、日が変わる頃には雪になるかもしれず、忘年会やクリスマスで賑やかなはずのこの時期に、「Y」の店内では客がただ一人、L字型のカウンターの角に座ってひや酒を飲んでいました。

その客の席の前には、厨房とカウンターの仕切りの内側に柱が通っていて、私の方からは客の顔が隠れて見えません。

彼はその死角から、厨房の中の様子を窺いつつ、カウンター上の広口瓶から、ピーナツやあられを何度も小皿に取っては齧りながら飲み続けています。

それは、まだ仕事の手が遅い私が、料理を注文した客を待たせる時間を埋めようと始めたサービスでしたが、年の頃 五十半ばに思えるこの客は、最初の来店以来一度も料理を注文せず、いつも同じ席に座って、同じように無料のつまみだけを食べて酒を飲みながら、こちらを値踏みするように観察しているのでした。

私は彼が、同じ町内にある「A寿司」の大将であることを知っていました。

都内を中心に数件を展開する有名寿司店から独立した千代田区一番町の店は、常連からミシュラン三ツ星の寿司屋「J」以上の評判を得て、宮内庁にも出入りしていたという彼の経歴は、私も聞いたことがありました。
そんな人が、なぜこの町に一人で店を出したのかは判りませんが、寿司職人として腕一本で名を成したという彼のプライドは、桜台という小さな町の飲み屋街にとって、大分取扱いに困る代物で、私の耳に入って来た評判も、そんなギャップから生じたトラブルに付随したものでした。

彼は、桜台の飲み屋には一通り顔を出しているらしく、隣の小料理屋「H」の女将さんが、ある時「Y」のカウンターでその時の事を話していました。
「わざわざうちの常連の前で、600円の刺身の仕立てに文句つけるなんて何様よ!だったら銀座か赤坂にでも飲みに行けって言ってやったわよ。」聞きながら、私は彼が「Y」では、料理を注文しない上に、出したお通しに箸も割らず、手でつまんで食べられる乾きもの以外は口にしていないことを思い合わせていました。

あの人が、「Y」でおとなしく飲んでいるのは、まだ自分が文句をつけるまでもないレベルだったからなのだと。

年末の掻き入れ時に、そんな客と二人きりで会話もなく、カウンター隅のテレビの音だけが流れ続ける店内の空気は重苦しく、普段なら(早く帰ってくれないかな…)としか思わないのですが、この日の開店前、私は人知れずある決心をしていました。

それは、家を出て店に向かう自転車を漕ぎながら、一年赤字つづきのこの店を「もう、閉めようか」と思ったのが発端でした。

桜台駅前は、昔から飲食店には向かないと言われていたそうだし、赤字のまま続けていても仕様がない。
よし、来年の1月終わりでちょうど一年、そこで赤字なら、もう辞めよう。

そう決心すると、心が軽くなった反面、引っかかることもありました。

料理もしたことの無い世間知らずが居酒屋を始めて、案の定すぐに店を畳んだ、それだけの事だと済まされ、そのまま忘れられるのは悔しかったのです。
この町の誰か一人で良いから「自分はあの店が好きだった、無くなって残念だ」と記憶に残してくれる人がいて欲しい。

店に着くころには、あと一か月と少しの期間で、どうすればその「たった一人」を作れるのかと考え始めていました。
仕込みを終えて、店の前に暖簾を掛ける時、あと一か月の間にこの暖簾をくぐる人はどれほどいるのだろうかと思いました。
そして、その人数は実に少ないと気づきました。自分が求める「たった一人」を作るなら、少なくともこの暖簾をくぐった人には必ず、誰であろうと、店を出る時に「来て良かった」「ありがとう」と思わせてやろう。

それだけを、今日から一か月の間、自分に課したルールにしよう‥‥。

そんな決心をしたその日の一人目の客が、よりによってこの人とは。
けれど仕方ない、決めた事を一か月続けるだけだと、私は彼に声をかけました。
「よかったら、ピスタチオも有りますよ。」「ん?」と、意外そうな顔をした彼の前に、新しい広口瓶を置くと、気が抜けたように「おぅ…、ありがとよ」と言いました。

まずはノルマ達成だと、ひそかに満足していると、カラカラと店正面の引き扉を開ける音がしました。

その日二人目の客は、初めて見る初老の男性で、遠慮がちに店の中を窺いながら、入ってすぐの、カウンターの一番隅に座りました。
そこは寒いでしょうと、奥のストーブ近くの席を薦めましたが、席を一つ移動しただけで、上着も脱がず、「熱燗を、一本」と言ったきり下を向いて黙っています。

そして熱燗と一緒に出した、二品のお通しをそれぞれ一口か二口で平らげると、おでんの盛合わせを注文しました。

ごぼう天、つくね、大根、牛スジ‥‥と、皿に盛って出汁を張り、辛子を添えている間に、もう一本目のお銚子が空になったようで、燗酒が追加されました。
随分せっかちに飲み食いする客だなと、二本目の酒に燗をしながら様子を窺っていると、その客は出されたおでんを食べながら、小さな声で「あったかいなぁ」「美味いなぁ」と呟いています。
目に涙が浮かんでいるように見えたのは、熱いおでんを急いで食べているからだったのかもしれませんが、私の料理を、こんなに美味しそうに食べてくれる客は初めてでした。

その後もおでんと燗酒が追加されるたびに、開店以来初めての“料理人の幸せ”らしきものを感じていたのですが、突然「マスター!」と掛けられた声で、現実に引き戻されました。

声の主は「A寿司」の大将で、いつも視線を遮っている柱の陰から顔を出して、こちらに目配せをして何かを伝えようとしています。「はい、何でしょう?」聞くと、苛立った声で「酒!」と一言。

私が一升瓶からひや酒をコップに注ぎ、カウンターに置こうとした時、彼はこちらに身を乗り出して耳元で囁きました。

「お前、分かんねぇのか。あいつ、食い逃げだぞ。」

後編へ続く

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蔵元亀泉酒造株式会社
原料米八反泉
酵母CEL-24
精米歩合50%
アルコール分14%
日本酒度-13
酸度1.5
アミノ酸度0.8
容量720ml/1800ml

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代表/善波栄治

1953年に、初代・善波秀吉が麻布十番にて創業。以来、本社を東麻布に移し、東京23区を中心に飲食店様への配送やお酒の小売りを行っている。

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